生府(せいふ)
健康と生命を最高の価値とする社会を運営する医療福祉の統治機構。人の身体は“公共の資源”とされ、不調も逸脱も許されない。
来歴
生府とは、伊藤計劃の小説『ハーモニー』に描かれる統治機構を指す。大規模な混乱を経たのちの世界で、政府に代わって社会を運営するのは医療と福祉を基盤とした共同体であり、健康と生命が最も高い価値として掲げられている。
そこでは、人々の身体に医療用ナノマシン群「WatchMe(ウォッチミー)」が組み込まれ、健康状態は常に把握・管理されている。病気を防ぎ、身体を健康に保つことは個人の問題にとどまらず、社会全体の責任とされる。身体は完全に個人だけのものとはみなされず、不健康とされる行為も、自分自身を損なうだけでなく、社会全体に関わる問題として扱われる。さらに、芸術や文学などの表現も、人々の精神や社会の調和を損なう可能性があるものとして、規制の対象となる。
そこでは、露骨な強制によって人々を従わせる必要はない。健康を守ることは善であり、他者を気遣うことも善である。その善意のなかに管理が組み込まれているため、逸脱しようとする者は、悪意のない配慮によって静かに包囲されていく。
強制のない管理は、抗う相手を持たない。生府という設定が示しているのは、優しさや健康、幸福を掲げる管理社会的な統治が、なぜ息苦しくなりうるのかという逆説である。『ハーモニー』は、そうした社会の「正しさ」から降りることを望んだ者たちの側から、その正しさそのものに問いを投げかける。